なんでメガネ屋さんが パンツ売ってるの? だってもともとメガネ屋さんじゃないからね・・・ ①

今日も元気になりそうなお話をお届けします。

本来なら 元気になりそうな話をしていく予定なのですが いままで書き控えてきた これまでの生い立ちを書き記すことにして見ます。 一度には書ききれそうにないので数回に分けます。よろしければ お付き合いください。

私は昭和38年 8月15日 いわゆる終戦記念日に生まれました。 物心付いたころにはすでに父方の祖父母は他界。母方は新潟に祖母がいたのですが当時新幹線も高速もないころは ほぼ外国に祖母がいるくらいの感覚でした。

父は川崎で生まれ その後 戦時中は疎開で仙台のはずれ、観光地として当時からも有名であった「松島」に流れこむ川の河口ちかくに家を構えることになったそうです。 河口近くということで 海の満ち引きでひどいときは玄関口にまで海水が上がってきたこともあると笑って話しています。

東北沖の大震災後 ボランティア活動のなか いったいどういった場所だったのか気になったので確認してきましたが それはそれは信じられないような場所です。今の建築基準では許可おりないです。

父が中学のころには祖母である母をなくし 同時に乳飲み子だった弟も亡くし その後出生順では4番目ではありましたが長男として下に2人の弟をかかえ、祖父を支えたそうですが その祖父も父が高校のころ亡くなり、かろうじて縁者を頼るか頼れないかのなかで生活をしておりました。

2番目の姉が名古屋に嫁いだことをきっかけに 縁もゆかりもない名古屋にやってきました。 なんとか大学にも入学して大学生活を始まります。

とにかくいろいろなアルバイトをこなしたようですが 記憶に残っているのは氷屋さんのアルバイトで 配達用にあったトラックをみて いつか自家用車として 車を買ってやるぞと意気込んだそうです。

卒業間近になり 大学に向かう朝の出来事。

車で毎朝すれ違う紳士に突然呼び止められ 「卒業後どうするんだ」と聞かれ 「決まってないならうちに来ないか」と誘われたそうです。 そしてその場で トヨタ自動車の下請けであった 東海理化工業株式会社さまに入社決定しました。

呼び止められた理由は 定かではなさそうなのですが 毎朝会う際 挨拶を(おそらく丁寧に)していたことしか思い当たらないそうです。

入社後 持ち前の好奇心で あちこちに首をつっこみ 営業職からはじまり 総務のなかで装備の買い付けを任せられるようになったと聞きます。 そこで仕入れの仕組みを知り その後に生かすことになります。

母は 新潟県長岡の出身で5人兄弟の末娘として生まれ 高校のころ父を亡くし集団就職で名古屋にやってきました。

サラリーマンをはじめたころ 父と母は知り合って生活をはじめ 38年に私が生まれました。

幼稚園に入る前に名古屋市緑区鳴子から同じく市内北区天道町のいわゆる団地に引っ越すことになります。

新潟に祖母が一人いたのですが お金もない中 帰省することもできず 私の誕生日は 常に テレビをつければ人が黙祷しているし(終戦記念日 NHKでは戦没者への黙祷)

周りを見れば 友人たちがそれぞれの祖父母に会いにでかけるので 一人ぼっちでいることしかありませんでした。誕生日会なんてだれもこないし・・・・

そうした事情をみてか 夏冬は家族で近場の民宿に出かけることが恒例になり 当時としては異例なくらい早く自家用車をもった我が家は あちこちに出かけることができました。

でもさすがに新潟は遠く 記憶の限りでは スバル360という車で 高速もない下道を2日かけて行った記憶とか 冬の凍りついたみちで 後部座席で妹と二人で寝静まっていたところ 母の悲鳴で 飛び起き なにが起きたかと聞いたら車がスピンして雪の壁に突っ込んでいたといった 命がけの帰省の記憶しかありません。

当時住んでいた団地は 6畳 4畳半の二部屋 4畳半に妹と二人 学習机を2つ並べると 布団を2つ敷くと 足は机のしたに突っ込まないと足を伸ばして寝ることさえできませんでした。

今日はここまで

では今日も元気に行きましょう!

投稿者プロフィール

上田唯司
上田唯司
 名古屋を中心に「メガネプラザ」「グラスヒュッテ」を展開する株式会社東和工業の代表です。 
内面の色気を引き出す「最幸の色メガネ」で、かける人を「元気」にしたいと願いながら仕事をしています。
 私が入れ込んでいる趣味の話 最近気になっている話などなどをつれづれなるままに書き記していきます。